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筋電メディカル徒然日記

2021年01月29日

徒然日記 03
オーケー先生?

彼は、自分のことを「頭が良かったんだ!」と言う。しかし、その後の彼の経歴を見ると頭が良かっただけではなく、相当に勉学にうち込んだに違いない。
南カリフォルニア大学で1980年にスポーツ医学で大学院博士課程を修了した彼は、テキサス農工大学の大学院助教授になり、京都大学教養学部へ助教授として呼ばれた。
その後、スウェーデン政府の給費でカロリンスカ医学研究所国際研究員として留学、アメリカのモンタナ大学生命科学部客員教授となり、1992年に京都大学大学院人間・環境学研究科助教授を経て、2000年京大の同科の教授に上り詰めた。
天は、不思議なものである。あの鉄棒からの落下事件がなければ、この道は無かったかも知れない。
 
私が、彼、いや森谷敏夫博士と出会ったのは、今から8年前か。まだ、10年は経っていないはずだ。当時の黄ばんだ名刺を探してみると、京大の名誉教授、京都産業大学客員教授、中京大学客員教授と肩書には書いてある。その他には、国際電気生理運動学会終身フェロー、国際バイオメカニックス学会理事、アメリカスポーツ医学会評議員、日本運動生理学会理事、日本体力医学会理事、日本バイオメカニクス学会理事、ネスレ栄養科学会議理事、日本肥満学会評議員、国際統合医学会顧問、NSCAジャパン理事長などを歴任してきたことを、私は知っている。黄ばんだ名刺には、そこまで書かれていなかったが「こりゃ凄い人に出会ったもんだな」と思ったのをよく覚えている。しかし、彼、いや博士には内緒だが、裏では「筋肉マン」とか「オーケー先生」とか、渾名で読んでいた。「オーケー先生」と呼んだのは、講演の途中途中で「OK?」と訊くからである。
 
最初の出会いは、森谷さんと各専門の学者たちとの座談会の司会や座談会の一員となり、一般人の知識内で話をするパネラーとして参加した時だった。私は、理学系では無い! 長い間出版社で、文学を扱ってきた文学系である。しかし、彼と話をしてきて判ったことがある。どちらも人間を扱う学問である。森谷博士は、人間を「理」として考える、私は、人間の「心」を扱う仕事だった。それは、人間を見つめる方向の違いだけであった。「理屈」と「気持ち」の違いだったのだ。孔子の論語になぞらえると、この「理」と「心」のせめぎ合いが人間を形成しているのではなかろうかと思う。
 
鉄棒落下事件をきっかけとして森谷博士は、「理」で人間を救う事を始めたのだと、私は思っている。もちろん、彼はスポーツマンである。プロのスポーツマンがこれからやるべきスポーツ理論の構築も彼の仕事であろう。もうひとつ、老々介護時代に突入した今、現実に父母の面倒を看なければならない子供たちは、50代、60代、下手をすれば70代である。60から70代で人間は、逝く時代ではなくなったからだ。彼は、どうすればその手助けができるかを、研究しているのだ。彼の「理」を使いながら!

高松市菊池寛記念館名誉館長
文藝春秋社友
菊池 夏樹