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筋電メディカル徒然日記

2022年07月08日

徒然日記 76
お江戸八百八町

今、私の仕事机の上に縦1メートル強、横80センチの安政6年(1859年)に作られた須原屋茂兵版の江戸地図が置いてある。これを見ていると、いろいろな興味が涌いてきますが、まず、今の東京と比べて江戸の街が何と小さかったことかを感じるのです。
 
江戸城を囲み、大所の殿様の上屋敷が並ぶ。大まかで申し訳ないが、地図自体が一寸違いなく画かれているとは思えないのでお許し頂きたい。
外堀の赤坂御門から四谷御門の内側、ちょうどJRの中央線が走る桜並木で有名な土手沿いに紀伊殿、井伊掃部、尾張殿と並んである。今で言えば、上智大学からホテルニューオータニの辺りだろうか。現代の紀尾井町は、この頭文字を取ったと言われる。お城を中心に西にあたる。
 
北には、内堀の中に田安殿と清水殿と画かれ、お濠を渡る橋に田安御門、清水御門とある。今の毎日新聞社辺りは、御用地だった。もう少し北へ行くと水戸殿である。今の後楽園で、庭は残っている。
東に目を向ければ隅田川がある。この頃隅田川を渡る橋は、浅草寺から渡る東橋(長七十六間。現在は吾妻橋と書き大川橋とも言われた)、外堀の湯島から流れる神田川が流れ込む脇に両国橋(長九十八間)、日本橋川・京橋川が流れ込む脇に新大橋(長百十六間)、最後が永代橋で隅田川の河口に架かる長さは、百二十何余と書かれている。全てで四つの橋があった。
 
江戸時代は、新大橋から上流の東橋までを大川端と言った。永代橋は、川が江戸湾に注ぎこむ河口に架かっていたからだろうか。江戸は地図で見ると南は、増上寺、御殿山あたりまでのようだ。江戸の周りは、全て田畑になっていた。住人の食料調達の手間がかからぬように江戸の郊外が食料倉庫のようなものだった。谷中の生姜や練馬の大根は有名だが計画的に作られ、目白や鬼子母神辺りは茄子の産地だったと聞く。
 
大まかだが住宅地と田畑が多くある所を線引きしてみると、南の江戸湾、品川から大崎、目黒、千駄ヶ谷。西は、内藤新宿、西大久保、高田馬場、椎名町。北は、雑司ヶ谷、護国寺、巣鴨、牛込、上野、浅草、そして東は、この地図では、押上、菊川、深川、木場と続く。池波正太郎が描く『鬼平犯科帳』の江戸!1787年(天明7年)ころから1795年(寛政7年)までの話で、江戸の外れの目白台に私宅があり物語では、清水御門の前に役宅があった。今の毎日新聞辺りの設定になっている。史実では、役宅は本所菊川に本拠地があったらしい。
 
江戸地図を参考に今の東京と対比してみたのは、江戸時代の人たちは、よく歩いたということだ。江戸は、大名屋敷の他は全てが新宿歌舞伎町のような所だったらしい。ヴェニス同様川の街だった江戸は、現在ヴェニスが自動車を入れないのと似て、江戸には、馬を乗り入れることは出来なかった。どこに行くにも徒歩である。長谷川平蔵だって、毎日徒歩で私宅の目白台から、役宅のある毎日新聞の辺りの役宅まで通ったのだから、健脚である。
現代人は、地下鉄やバス、電車やタクシーがあるから歩かなくなった。昔の人たちが歩んだのだから、歩けない筈はないと思う!健康のために!

高松市菊池寛記念館名誉館長
文藝春秋社友
菊池 夏樹